日本の年中行事

冬至
太陽の位置がもっとも南にある日で、夏至の反対で、日照時間が最短となります。今年は12月22日。昔中国では冬至を太陽運行の基点とし、暦の始点としていたので、この日を祝って宮中では祝宴が開かれたそうです。日本にもこの習慣は伝えられ、今でも小豆粥、かぼちゃをたべ、冷酒を飲み、ゆず湯に入る風習があるのはご存知のとおりです。 かぼちゃはビタミン豊富な事で知られ、昔の人にとっては、冬のビタミン供給源であったのでしょう。 ある地方ではミカン、レンコンなど「ん」のつくたべものを7種類食べると幸せになれるという言い伝えがあるそうです。 ゆず湯に入ると、この冬が無病息災で送れるといわれているそうです。 ゆず湯は、疲労回復や神経痛に効果があるといわれます。 いまでは粉末の合成入浴剤が売っていますが、この日くらい本物の柚子を湯に浮かべて入浴してみませんか。

寒い時期に体のあったまる「ゆず酒」を作り方を紹介します。ビタミンCが豊富な上、肌荒れや冷え性に効果的だそうです。
「ゆず酒の作り方」
材料:黄ゆず…500g、氷砂糖…80g、ホワイトリカー…1000cc
ゆずを水洗いしてよく水を切り、ふきんなどで水気を拭き取ります。

つぎにリンゴのように皮をむきます。この時、なるべく白いワタの 部分が実に残らないようにむき、実に残ったワタの部分は丁寧に取り除くのがこつです。
実をつぶさないように横半分に切ります。
実と先にむいた皮を瓶に入れ、砂糖とホワイトリカーを入れて密閉し、冷暗所に置きます。皮は苦みも出るため、1週間後に取り除きます。
2月弱で出来上がり。中の実を出し、ガーゼで漉して保存します。


クリスマス
12月25日のイエスキリストの降誕祭で、もちろんキリスト教徒の行事で、欧米から伝来したものです。この日はパーティを開き、贈り物を交換し、クリスマスケーキを食べたり、キリスト教徒でない一般の家庭でも祝っており、今では日本ですっかり定着しています。特に子供達にとって、イブの夜のサンタからプレゼントをもらえる風習は忘れられない思い出をつくってくれます。。小売業では、年末商戦の大事な行事となっています。

年越し
大晦日(12月31日)から元旦(1月1日)までをいい、年越しの境目12月31日の夜を除夜といいます。大晦日は、かつては大掃除や正月用品のかいだしと料理、注連縄(しめなわ)、鏡餅などの準備で多忙な1日でありました。商店街も朝早くから夜遅くまで活気があったといいます。今は無休で毎日深夜まで営業する店がたくさんあるので、町の表情は、あまり普段と変わらない感じですが、東京の上野界隈(飴屋横丁)の年末風景などはその活気を今に伝えてくれています。

除夜
除夜は年神を迎えるため心身を清め、一晩中おきて、酒や餅などを先祖に供え、特別な料理をいただく習慣があり、年越し蕎麦をたべることは今でも多くの地域で行われています。年越し蕎麦は江戸時代の元禄の頃から始まったといわれる町人文化です。
ご存知除夜の鐘は十二時を挟んで寺院で108回鐘をつくことで、108種の煩悩を祓い、新しい年を迎える意味をもつといいます。京都の八坂神社では、この夜は一晩中大かがり火を焚く、おけら参りがおこなわれるそうです。

年忘れ
忘年会は室町時代から行われた一年間の苦労を忘れ、息災であったことを祝う酒宴が今に続いて
行事です
正月
正月は一年の最初の月、つまり一月をいい、1日を元旦といいます。 年末の賑わいが打って変わってのどかな気分になります。正月はもともと仏教伝来以前からおこなわれていた日本古来の祖霊祭で、夏の盆の頃に行われていたものと対応する半年毎の先祖の魂を迎えて祭る行事であったそうです。西日本では現在も正月の墓参りの行事が残っているそうです。しかしだんだんと盆は先祖の供養としての仏教行事の意味合いの濃いものになり、正月は年神を迎えて、新年の豊作を祈る年神の祭りとしての神事となってきたのです。年神を迎えるには、門口にいわゆる門松を立てて、神霊が出現するときの依代(目印となるもの)とします。また、災いをもたらす禍神(まがかみ)が入れないように注連縄をはって飾ります。注連縄は、左捻りで編まれます。こうした飾りは30日までに飾り付けを済ますしきたりで、大晦日の飾りつけは一夜飾りといって嫌われます。飾りは7日の夕方に取り払うことが多いようですが、地方により6日に行うところもあるそうです。。元旦から7日までを松の内といい、7日は七日正月(七草お節句)、15日は小正月(二番正月)、20日は二十日正月(骨正月)とよばれ、それぞれに祝う風習が残っています。正月の終わりは20日とするところが多く、西日本では、この日正月で食べた塩ぶりの頭や骨を煮て食べるしきたりが残っているそうです。

初詣

年明け後初めての寺社まいりのことで、恵方(えほう)詣りと称して、年神は年によって異なった方向に宿るといわれ、そお方向を恵方といい、恵方にある寺社に参るのを恵方詣りといいます。古くは、大晦日の夜から朝まで氏神の社に篭もるならわしがありましたが、やがて除夜詣でと元日詣でに分かれるようになりました。

若水
元旦早朝に井戸の水を汲んできて神に供え、家族の食事に使うならわしのことをいいます。若水を汲むのは年男の役目とされています。海水を汲んで神にそなえることは、若潮といいます。

七草
1月7日の朝七草粥を食べるならわしで、人日(じんじつ)の節句といい5節句の一つです。春の七草はせり、なずな(いわゆるペンペン草)、御形(母子草)、はこべ、仏の座、すずな(かぶ)、すずしろ(大根)のことで、これを刻んで粥と一緒に煮ます。

左義長
14日の夜か15日の朝、門松や注連飾り書初めなどを持ち寄って焼く行事で、どんど焼、さいと焼などとも呼ばれる。その火で焼いた餅を食べると、その年の病が避けられるといわれています。

鏡開き
供えた鏡餅を下げて食べる祝いの行事で、正月最後の日の20日に行われていたのが、徳川3代将軍が20日に亡くなったので11日に変更され、そのまま現在に至っているのだそうです。餅は、切らずに割って食べます。これを開くとよびます。
雛祭り

・・雛祭り・・上巳の節句、桃の節句ともいい五節句の1つです。
平安時代のころの、人の罪や穢れを人形(ひとがた)に託して水辺に流す風習がもとのようです。
今でも流し雛と呼ばれるこの風習が行われている地方があるときいています。
女の子の節句として部屋にお人形を飾るようになったのは、江戸時代からです。
お人形には立雛、座雛があります。男女一対です。お人形は天皇、皇后或いは親王、内親王を表した内裏様は、向かって右が男雛、左が女雛となります。
御所の紫宸殿は南向きであり、そこに南を向いて座したひとの左、陽の出る側(東側)が上座とされるからです。
ちなみに左大臣と右大臣では左大臣が格上です。
その他の場合は地方の慣習に従うことになりますが、不明の場合は部屋の上座にあたる場所に男雛を置くとよいといわれています。
男女平等のこの時代女性に叱られそうですが、慣習と理解してください。
お雛様は、女の子が幸せに成人するように、その子の厄を背負うといわれています。
お嫁にでも行くことになったときに、その役目を終えますので、神社に納めて厄を流してもらうことになります。各地の神社でその行事が3月3日に行われています。
お雛様は、本来ひとのお古を貰うものではないのですね。
もっともインテリアとしてのお雛様の場合はあまり気にすることはありませんが。
※節とは、気候の区切り(春、夏、秋、冬)の始まりの日をいいます。立春、立夏、立秋、 立冬など。太陽の運行を観測することにより定められています。節の頃は、昔から重要 な年中行事が行われてきており、5節句と呼ばれています。
    人日(じんじつ)   正月7日
    上巳(じょうし)    3月3日
     端午(たんご)      5月5日
    七夕(しちせき)   7月7日 
    重陽(ちょうよう)  9月9日
                              
端午の節句

端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事で五節句の1つです。
端午というのは、月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて同じ数字を重ねることが縁起いいということによって、5月5日のことになったようです。

奈良、平安の日本では季節の変わり目である端午の節句に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。中国では古くより、この日に薬草摘みをしたり、蘭(らん)を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習があったことから、日本の宮廷でもさまざまな行事が催されました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式もおこなわれたようです。

古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(しょうぶ=武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになりました。

やがて江戸時代にはいると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。

このような時代の変遷のなかで、端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられます。やがてこの風習は武士だけでなく、広く一般の人々にまで広まっていきます。はじめは、玄関前に幟や吹き流しを立てていたものが、やがて厚紙で作った兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども飾るようになっていったのです。さらに江戸時代の中期には、武家の幟に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。鯉の滝登りという男子の立身出世を縁起して、江戸の後期頃から盛んになったようです。
現在でも、端午の節句のお飾りは地方によってさまざまです。鎧や兜、武者人形、馬や虎・若武者の人形、鯉のぼりや旗のデザインもそれぞれの個性があるものです。

端午の節句の食べ物の柏餅やちまきは、日本で最も古いお菓子の形をのこしたものといわれています。なかでも、端午の節句のちまきにはこんな伝説があるのです。

中国は戦国時代、紀元前278年のことです。楚(そ)の国の高名な詩人、屈原(くつげん)は国王の側近としてつかえ、人々からも慕われていました。しかし陰謀のため国を追われることになった屈原は、ついに汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。その日が5月5日。屈原の死を悲しんだ人々は、たくさんのちまきを川に投げ入れて弔いました。
この物語が、端午の節句にちまきを作って食べるという風習の起源だと言われています。
七夕の節句
七夕は旧暦7月7日の行事で、五節句の1つです。奈良時代から祭られてきたと言われていますが、次の2つのいわれがあり,日本の七夕祭は地方によりその祭り方はさまざまです。
1.中国の宮廷行事、乞功奠(きっこうでん)が伝来したもの。
天帝の娘織女(こと座のヴェガ)と牽牛(わし座のアルタイル)の星の恋物語にちなんだ星祭で、星をながめ、祭壇に針などをささげて 工芸の上達を願いいました。この祭を中国の宮廷では乞巧奠といいます。 日本の大和朝廷も乞巧奠にそって七夕を祭ったとつたえられています。 民間に広まったのは室町時代以降ということです。 類話が、東南アジア〜朝鮮半島・中国・西日本の広範囲に見られます。天にのぼった恋人たちが,最後に大河によってひきさかれ、1年に1日しか会えなくなる結末はだいたい同じです。

2。農村のみそぎ、棚機女の行事、収穫祭、う蘭盆(旧7月15日)の準備
 日本の七夕祭りは大陸伝来の星祭だけではなく、古い民間信仰と結びついているようです。乞巧奠伝来以前から,日本には棚機女(  たなばたつめ)という巫女が、水辺で神の降臨を待つという農村の「禊ぎ(みそぎ)」の行事があったといわれています。両者が合体した のが日本七夕で、タナバタの読みは棚機からきているといわれます。
 また,民俗学の諸調査によると,田舎の町村の七夕祭は,すぐ後の大型年中行事・う蘭盆(お盆のこと 。旧7月15日前後)の準備とい う色彩が強く、そのためのみそぎだという説もあります。
 さらに、静岡などでは畑にたなばた様が降臨するという言い伝えがあり、里芋の葉の水を集めて墨をするところもあり、収穫祭という意 味合いがある地方もあるようです。

 なお笹に短冊等を豪華につるす笹飾りは,江戸時代から始まったようで、中国や東南アジアの七夕には見られません。(中国では五  色の糸をつるすそうです)笹をたてる儀式は東南アジアの8/15のお月見でさかんにみられます。
 アジア一帯の七夕伝説は、天女の羽衣と七夕を合体させたようなものです。中国、朝鮮、マレーシアなどの東南アジア各地でみられ、 日本の各地の七夕もこれらが様々なルートで伝わった可能性もあります。
 タイ、ベトナム、フィリピンには羽衣伝説があり、そういった山地の羽衣伝説は、天から降りて来る天女は人間の男に羽衣を隠され、天  に帰れず妻になり、やがて羽衣をみつけ天女は天にかえる。しかし男も後に、天にのぼり、最後は7月7日の夜だけ会えるようになる、 というものです。(七夕型)
 また中国では、天女は7星の1星が地上におりた、という種類のものがあり、その天女の子が部族の祖先となる、というものです。(7星 型)
お盆とは

盂蘭盆会(うらぼんえ)で、略してお盆といいます。 
盂蘭盆とは、サンスクリット語の"ウラバンナ"を音訳したもので、「地獄や餓鬼道に落ちて、逆さに吊り下げられて苦しんでいる」という意味で、そのために供養を営むのが、盂蘭盆会です。釈尊の教えでは「七月十五日に、過去七世の亡き先祖や父母たちのために、御馳走を作り、僧侶たちに与え、その飲食をもって、供養する」と祖先が苦をのがれ、無事成仏することができるそうです。 この教えが、盂蘭盆会の始まりといわれています。 
お盆(盂蘭盆会)は、先祖や亡くなった人たちが苦しむことなく、成仏してくれるようにと、私たち子孫が、報恩の供養をすることなのです。
毎年、七月十五日を中心に、十三日を迎え盆、十六日を送り盆といい、十三日から十六日までの四日間が、お盆の期間です。旧暦の七月十五日や、月遅れの八月十五日を中心にお盆をつとめるところもあります。
働く人は盆休みをこの時期にとり、故郷のある人は帰り、先祖の供養をして、盆踊りをして楽しみ、昔から生活のなかに、しっかりと根ざしている、夏の季節の節目となっています。レジャー化しつつある最近の傾向は、日本の文化がだんだんうすまっていくようで少々残念ですが。

盆の供養

十三日の朝には、霊を迎えるための精霊棚(しょうりょうだな)=(盆棚)を作ります。精霊棚を置く場所は、庭先・縁先・戸口・縁側・奥座敷・仏間・床の間・仏壇の脇などさまざまです。 その地方の習慣に合わせて、決まった場所に作ります。
お盆には、先祖や亡くなった人たちの精霊(しょうりょう)が灯かりを頼りに帰ってくるといわれ、十三日の夕刻に、仏壇や精霊棚(しょうりょうだな)の前に盆提灯(ぼんちょうちん)や盆灯籠(ぼんとうろう)を灯し、庭先や門口で「迎え火」として麻幹(おがら)を焚きます。盆提灯をお墓で灯し、そこでつけた明かりを持って精霊を自宅まで導くという風習もあります。 十四日、十五日は、精霊は家にとどまり、十六日の夜、帰ってゆきます。この時には、迎え火と同じところに、今度は「送り火」をたき、帰り道を照らして、霊を送り出します。
精霊流しや灯ろう流しも、お盆の行事でご先祖さまの霊をお送りする儀式で、送り火の一種です。 最近では、この行事も観光化しつつありますが、もともとはお盆の供物や飾り物をまとめマコモのござにつつんで小さな舟に乗せて川や海に流す行事でした。50〜60人でかつぐ大型の精霊舟もあるそうです。京都をはじめ、大文字焼きは送り火の大型版です。灯ろう流しとともに夏の風物詩となっています。
精霊棚は、台の上に真菰(まこも)で編んだゴザを敷いて作ります。棚の奥中央に、先祖たちの位牌を安置します。 多くは、位牌の前に、なすやきゅうりで作った牛や馬を供えます。これは先祖の精霊が「きゅうりの馬」に乗って早く来て、「なすの牛」に乗ってゆっくり戻って行くようにとの願いを込めたものです。そのほかいろいろな供物がおかれ、また、洗った米に、なす・きゅうりなどを賽(さい)の目に刻んだものを混ぜて、蓮の葉の上に盛り付けた、水の子と呼ばれるものも供えます。花も季節のものを生けます。 四十九日の忌明けの後、初めて迎えるお盆を、新盆とか初盆といいます。 新盆の供養は、特にていねいに営みます。
新盆の時は、葬儀の時世話になった人や、親戚・知人・近親者を招き、僧侶を迎えて、読経してもらい
ます。読経のあとは、仏への供養の意味で、参会者全員で食事をします。 四十九日の忌明けより前に、お盆を迎えた時は、その年でなく、翌年のお盆が、新盆となります。 
新盆に飾る提灯には、白張りの新盆提灯と、盆提灯があります。白張りの新盆提灯は、近親者から
贈られることが多いようですが、盆提灯は、その他の親戚や知人から贈られます。盆提灯を贈る時には、相手の家紋を入れ、一対にするのが、正式な贈り方です。最近は、あまりこだわりません。
新盆提灯は、お盆のあと、お寺に納める習慣になっているところもあります。

浄土真宗では、死者はすべて極楽浄土に往生していると考えられているのでお盆に霊が帰ってくるという発想はありません。ただ寺院での法要は営みます。  

盆踊り

盆踊りはお盆にもどってきた精霊を慰め餓鬼や無縁仏を送るための踊りという説、お盆の供養のおかげで成仏することのできた亡者たちが歓喜する姿を表現したもの、お盆にもどってきた精霊たちを踊りに巻き込みながら送り出すためのもの、悪霊や亡者たちを踊りながら追い出すものといろいろです。いずれにしても、祖先たちの精霊のために踊るというのが、本来の意味です。  地域のコミニケーションのいい場所になっています。お盆の行事が、観光化され、町おこしのイベント化され、各地で大きな祭りとして盛大にとりおこなわれています。花火大会、大文字焼き、灯ろう流しなど各地でみられます。

越中八尾の風の盆

中国楽器の胡弓が奏でる旋律にのって
うたわれる小原節が素敵でした。

 
ねぶた、竿灯、七夕の写真   

秋田西馬音内の盆踊り
端縫いの衣装が素敵(右)。
亡者姿の踊り手がいます(左)

西馬音内盆踊り見物記

重陽の節句
9月9日は重陽の節句です。 中国の陰陽思想では、偶数を陰、奇数を陽とします。9は奇数の 最大のものですので、9は陽が極まった数字と考え、9月9日は 9が重なるので「重陽」といい、めでたい日としました。また「重陽の節句」は「菊の節句」とも呼ばれています。中国では九の日に邪気を祓うため、菊の花を飾り、菊花酒を飲む習慣がありました。気品のある菊の花の香りは邪気を祓い寿命を延ばすと考えられていたようです。実際に菊花には生薬としての薬効があります。この時期は季節の変わり目で、体調をくずしやすいこともあり、菊の花を枕に入れて菊枕を作ったり、プーアール茶に菊花をいれて菊普茶(コッポウ茶)として飲む習慣がありますが、夏の暑さの名残を取り除くための健康法として考えられたのでしょう。 日本では平安時代からこの節句が行われるようになり、宮中では杯に菊の花を浮かべて 酒を飲み詩歌を読んで楽しみました。 民間では「お九日」(おくんち)といって収穫祭の一環とする風習もあるようです。「お九日」は9月9日を神の日、19日を農民の日、29日を町民の日などと言って、神酒に菊の花を添えて、餅をつき(ヨギを入れたりする)、栗飯を炊いて神に感謝する稲の刈上げの祭りのようです「お九日」に茄子を食べると中風にかからないとも言われているようです現在日本では、重陽の節句は、9月9日にまだ菊の花が咲いていない時期ということも有り、行事としては盛んではありません。この時期はお月見のほうがなじみぶかいでしょう。
お月見とは
 お月見は旧暦の8月15日に月を鑑賞する行事で、この日の月は「中秋の名月」、「十五夜」、「芋名月」と呼ばれます。月見の日には、おだんごやお餅(中国では月餅)、ススキ、サトイモなどをお供えして月を眺めます。 月見行事のルーツはよくわかっていません。中国各地では月見の日にサトイモを食べることから、もともとはサトイモの収穫祭であったという説が有力となっています。その後、中国で宮廷行事としても行われるようになり、それが日本に入ったのは奈良〜平安時代頃のようです。 また、日本では8月15日だけでなく9月13日にも月見をする風習があり、こちらは「十三夜」、「後の月」、「栗名月」とも呼ばれています。十三夜には、月見団子の他に栗や枝豆をお供えします。各地には「十五夜をしたなら、必ず十三夜もしなければいけない」という言葉が伝えられており、片方だけの月見を嫌う風習があったようです。十三夜の風習は中国にはなく、日本独自のものです。
 お月見は旧暦で行なう行事です。旧暦は、月の満ち欠けで日付を決めるもので、現行の太陽暦とはシステムが異なります。そのため両者の日付にはまったく関連がなく、従って月見の日付(旧8月15日、旧9月13日)も年によって一定していません。

中秋の名月(旧8月15日) 十三夜・後の月(旧9月13日)
  2016年      9月15日     10月13日  
  2017年      10月4日
  11月1日  
  2018年      9月24日     10月21日  
  2019年      9月13日     10月11日  

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